瑠璃の星☆彡

写真・イラスト・旅日記

明治の教へ 〜明治国家を創りし武士たちに捧ぐ〜 小笠原貞宗



2018/05/24 に公開

《作曲者からのメッセージ》

平成二年の秋、たまたま読み始めた一編の文章によって、
私の明治国家への想いは劇的に覚醒したのだった。
復古派文人・保田與重郎の「明治維新とアジアの革命」
----昭和三十年に書かれた作品によってである。

明治維新が有色人種民族に与えた勇気、フランス革命に対する道義的優位性、
その世界史的変革力の大きさが信念をもって語られているのを読み進むうち、
私の感動は頂点に達していた。この感動を何とか音楽化できないものか、
こんな考えに取り憑かれ、非力を顧みず、夢中で「明治」の音楽化に没頭したのである。

実は「明治の教へ」は、昭和六十三年晩秋に作曲した「昭和への祈り」、
平成元年に作曲した「平成の誓ひ」に次いで作曲された、
近代日本をテーマにした一連のシリーズの三作目だった。
平成二年の夏から秋にかけて作曲された。

「昭和への祈り」は御不例が続いていた昭和天皇の御治世が、
最期の時を迎えつつあった空気の中で作曲された。
今でも、あの時の日本人が感じた不安と危機感は忘れることは出来ない。

「平成の誓ひ」は、昭和の終焉という運命に際会した我々が、
新たな時代を生きていく時に感じた厳粛な思いを表現するつもりで書いた。

そして「明治の教へ」である。
この作品は時代背景の流れに沿って、
嘉永六年のペリー来航から始まる幕末日本の動乱から始まる。
だが、その前に「孝明天皇」の和歌が、冒頭に演奏される。
強烈な攘夷を主張されたという「孝明天皇」だが、
和歌そのものは静かに深く我々の心に響き渡るのである。

黒船ショックと江戸日本の動揺。西欧植民地化勢力対薩長の戦い。
大砲の咆哮。志士たちの、文字通り命懸けの奔走。
これら革命の狂瀾の中で、倒幕が行われ国民が形成され、
祖国の自主独立という至上命題に向かって力強く結集していく。
明治国家の誕生である。その過程では、無血革命とは言うものの、
少なからぬ血が流された。謂わば明治国家生みの苦しみと言えようか。

二度目の和歌は、そんな無数の非業の死を遂げた草莽志士たちの辞世の音楽化である。
ここでは私事に亘って恐縮だが、赤報隊・滋野井隊の軍師だった
私の高祖父・小笠原大和守通孝の辞世を画像として添えてある。
(詳細は「またしちのブログ」内の「赤報隊士列伝・小笠原大和」の一連の記事を参照されたい。
https://ameblo.jp/matasichi/

ここはむしろ、他の志士の辞世も同時に歌われていると感じて頂いた方がいいと思っている。
武士(もののふ)の犠牲的精神の美は、哀しくも清らかな調べとなって、
後世の我々の心の奥深くに浸透していく。
維新が遂行された過程で、皮肉にも、その主体であった
武士という日本史特有の倫理的集団が、その姿を消すこととなった。

以後、明治国家は急速な近代化を遂げた唯一の有色人種独立国として
日清・日露戦争に勝利し、その栄光を世界中に知らしめた。
曲中最大のクライマックスで突如、三度目の和歌が奏される。

明治三十七年、明治天皇の御製----
よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ—-
-昭和天皇も日米戦争直前の御前会議にて、
二度までも詠み上げられた有名な和歌で、
世界平和への強い御軫念を表したものと言われる。

幕末維新~明治時代をたった十五分の音楽で描き切るなど、
固より不可能なことは重々承知している。無理を承知で描きたかったのは、
一五〇年前の、あの激動の時代を生き、
死んでいった人々への共感、自主独立の精神の大切さ、
そして大義のためには命をも投げ出す生き方の美しさ、ということに尽きる。

今日浸透している人権思想やリベラルな風潮からすれば、
とんでもなく野蛮で許し難いものを音楽化したものだ、と非難されるかも知れない。
が、それがどれ程の分量になろうとも、「明治」の偉大さ、
輝かしさを超えることはないのである。

幕末から明治にかけて示された我が民族的気概こそ、
学ぶべき最大の歴史的遺産であるに違いないからである。
(なお、この録音はライブ収録のため、一部会場のノイズが入っていることをご了承願いたい。
平成九年六月十六日カザルスホールにおけるライブ音源を使用。)

平成三十年五月吉日  江戸開城から百五十年目の年、維新の志士を追悼しつつ記す。

----------------------


古史古伝「ホツマツタヱ」を知ってから、
それに魅かれる方々との有意義な出会いがたくさんありました。
ピアニストの小笠原貞宗さんとの出会いもまた、私にとっては、
どこか懐かしい響きが心の奥に呼び起こされるような感覚をうけました。

人として生まれたからには、
魂が輝くような美しい生き方を志向してゆきたい。
そこが、共通した想いなのかもしれません。

ホツマツタヱを研究されている方々は皆、
より良い方向へと願い、和の国・日本に
篤い想いを抱いていらっしゃるように感じます。
先人たちの生き方に学ぼうと、前向きに・・・
一番大切な部分ではないかと思っています。

小笠原さんの新曲「明治の教へ」は、
曲も映像も、心に波風を発たせて芯に迫ってくるかのようです。
また、広がる優しさも感じられます。

私も、ホツマツタヱの和歌や、明治の言霊学を知ってから
明治天皇の御製や、昭憲皇太后がお詠みになった歌を時々眺めてみたりしています。

明治維新の頃は、どんな時代だったのかな・・・と、よく想像します。

知りうる限りのその時代に生きていた人々の心に、
寄り添いながら私たちも生きていく・・・
その叡智の結集で新しい扉を開いていけるかもしれません。

素敵な曲を御紹介頂き、ありがとうございます。

ぜひ皆様も、お聴きくださいませ。 (^O^)


テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/25(金) 23:37:27|
  2. 動画

山蔭神道第80世 表博耀さん

出雲の歴史 トビ一族【CGS 表博耀 日本人を考える 第17回】


瀬織津姫とニギハヤヒ【CGS 表博耀 日本人を考える 第18回】


カタカムナの土居先生のご紹介で
表博耀さんにお会いすることができました。
サラシャンティに来てくださったのです。

9 月27 日( 日 ) 枚岡神社にて「 第6回 創生平国神楽 」をご奉納されるそうです。
隠された歴史を伝えくださっている動画もぜひご覧ください。

古代出雲・トビ一族・ニギハヤヒ・セオリツヒメ

そんなお題で語られるタイミングには
出雲の神様が御縁を結んでくださったのかな♪
・・・なんて、勝手に思ってしまいます。

出雲人の私としては、
とっても嬉しい流れが続いてワクワクしてます。 (^O^)







テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/22(火) 22:10:16|
  2. 動画

龍 Draco

龍1web

龍2web

Illustratorだけで描いています。
ほとんど円弧とハサミツールのみの作業でした。

これに慣れるとペンタブが要らなくなるので
ぜひともマスターしたいところです。
とはいえ、思い通りの線を描くのって
慣れないとやっぱり難しいね。
がんばろう。。。

ウロコを描いていると無心になります。

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/21(月) 22:38:59|
  2. 言霊・イラスト

花 hana

花1web

花2web


テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/16(水) 23:35:16|
  2. 言霊・イラスト

ヤマタイカ

ヤマタイカ

星野之宣さんの「ヤマタイカ」を読みました。

ここ最近、出雲・神戸から
沖縄・九州のあちこちに訪れて
ぐるぐる歩いているうちに
縄文末期~古墳時代の神々のことを
もっと知りたいと思うようになりました。

川鍋光慶さんの「邪馬台国ラプソディ」からも
その実相の手がかりは掴めます。

星野之宣さんの「ヤマタイカ」はテーマが明確です。

卑弥呼のメッセージは、この時に描かれていた内容と
いまとでは、少しずつ変容しているように思います。

ですが、大切なメッセージはこんなカタチで
伝達されていくんだ…と知ることができます。

上森三郎さんの活動を応援している方たちも
卑弥呼を知っている人たちだから
一緒に動いていけるんだと思っています。

私もイラストなどで伝えていきたいと思っています。

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/15(火) 08:27:30|
  2. 未分類

麻 asa

麻1web

麻の葉文様が好きです。
なにかできないかな~と考えています。


麻2web


カタカムナ文字と組み合わせたら
面白いものが出来そうな感じです。(^o^)

麻と稲穂が煌くZipangu。
これからのテーマにしたいです。

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/11(金) 13:44:57|
  2. 言霊・イラスト

蒜山(ひるぜん)

2018蒜山

GWということで
本日は出雲に帰って久しぶりに実家で団欒していました。
祖母・父・母・弟と会って話すのは一年半ぶりです。

昨日の記事とも繋がりますが
今年は「大山(だいせん)開山1300年だね~」という話題になり
なぜか流れで、与那国島と日御碕の海底神殿の話題になったりと
いろいろな話に花が咲いて楽しいひと時でした。

写真は、下り線の蒜山SAで撮影した蒜山(ひるぜん)です。
伯耆大山とともに、この地域はいま
とってもホットだな~という印象があります。

連休は混んでいますが
新緑の眩しい季節となり山の空気が美味しいです。
眺めに行くのはおススメです。 (^o^)


テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/03(木) 23:44:54|
  2. 霊峰富士・地方富士

英彦山★六甲山 修験道と山岳信仰 9 龍灯伝説

317英彦山32

『秦氏の研究』
大和岩雄 大和書房

p-166

小宮八幡宮のある香春の山を『豊前国風土記』
「新羅国神」を祀る山と書くことからみても
鍛冶翁伝説は渡来工人の伝承である。

『魏志』東夷伝弁辰伝(弁辰は加羅地方をいう)に、
「国、鉄を出す。韓・減・倭、皆従って之を取る」とあり、
秦の民の故郷は鉄の産地だから、採鉱技術をもって渡来し、
香春岳の鋼・鉄を採り、鋳造をおこなったのであろう。
それが、八幡宮の鍛冶翁伝説になったのである。

三晶彰英は「鉱山が神聖な不入の地となっている例」をいくつかあげ、
「豊前の英彦山には金山彦・金山姫という名で金神が祀られており、
古くは神像を鋳ることが重大行事であったという。

そして英彦山の聖域がアジールとしての性質をもっていたことは
『重科ノ者二テモ彼山へ逃入テ頼ヌレバ、一人モ山ヲ不レ出助置ケリ』
とあるので知られる」と書いている。

採銅所のある香春ノ岳も、同じアジールである。
香春と八幡の神の元宮が、
いずれも香春三ノ岳の採銅所にあるのも、
採銅地が聖地であったことを示している。
こうした鉱山を白山ともいう。

p-181

大仏を作った工人の別君広麻呂も、
天平勝宝元年八月に、陰陽頭になっている。

陰陽師と鋳造工人が同一人物であることは、
中世の漂泊する陰陽師や修験者と共通するものがある。
修験者は鉱山師でもあった。

317高住神社28

八幡神の「犬」や、空海の「犬」は、
「別部の犬」と同じ意味があった。
--------------------
「民族学伝承ひろいあげ辞典」さんより 引用
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53470994.html


■別部の犬(『播磨国風土記』讃容郡)

この鉄を生ずる「十二の谷」を発見したのが
「別部の犬(わけべの・いぬ)」だと風土記は書いている。
別部(わけべ)も部民の名である。
人でありながら犬を自称し、
犬の子孫であり、鉱物を探し出す部民である。
犬を祖先とする氏族とは隼人たちである。
→書庫・犬祖伝承
によれば犬を祖とする部族は中国少数民に顕著だが、
その多くは長江文明が黄河文明により南下、四散するときに南方、
インドシナ半島北部の越国(ベトナム)から
船によって南シナ海を北上して、列島の南部に辿り着く。
つまり南九州の熊襲や隼人が呉王や太伯を祖とし、
犬の遠吠えをする風習に見事に合致してくる。

■和気清麻呂の祖

別部の出身地のひとつが備前国和気郡の和気町である。
和気氏の大元は磐梨別公(いわなし・わけの・きみ)という。
別公の部民を別部といいそれが犬と自称していた。
つまり佐用の鹿庭(神庭)の鉄を発見したのは、
和気清麻呂に関わる部民たちである。

磐梨別公の祖は垂仁天皇
(10代崇神の子・イクメイリヒコ・イサチノ・ミコト)の
皇子である「鐸石別命(ヌデシワケノ・ミコト)である。

このヌデシの「ヌデ」は銅鐸の「鐸(たく・ぬで)」を指しているので、
銅鐸氏族とはつまり和気氏の先祖を指すこととなり、
しかもそれは三輪王朝二代目を祖としている。
つまり纒向に入った氏族であろう。
吉備王家、大和の吉備氏とは和気氏の祖であろうか?となる。要証拠品。

岡山県の和気町からはちゃんと銅鐸も出ており、
さらに和気清麻呂の先祖には鐸石別の名前が書かれている
(『日本書紀』)。

従って考古学的にも、文献的にも、和気清麻呂を出した和気氏が、
銅鐸を大和に持ち込み、祭祀し、
それを地中に埋めさせられたことが推測可能であるうえに、
吉備と出雲と播磨の関係から、出雲荒神谷の銅鐸もまた
吉備の和気氏先祖たちが埋めたことが推測しうることとなるだろう。

■ここ掘れワンワン

この別部の犬とはいわゆる「花咲じじい」の犬である。
「ここ掘れ」=鉱脈を掘ること。
宝が出てくるとは鉱物が出ること。

たから=宝来=蓬莱=西=いぬ・さる・きじの方角=風水・道教・陰陽五行の金気。
「気」=和気である。

「ワケ」王朝という文献史学者たちの既成の天皇家血脈を
大きく区分けした古代大王分類理論がある。
つまり吉備王=ワケ=和気=大和の吉備氏
・・・葛城氏との共立された王家。

従って和気、別部、別所には
そもそも鉱山がある場所という意味があったと思われる。
転じて、中世の地名とされる別府にも、
そもそもは別部がいた場所に近い意味があったと思う。
府とは別の大事な場所。

つまり武家には欠かすことのできない鉄の産地が別府ではあるまいか?

こうした場所に必ずあるのが地下式横穴、装飾古墳、線刻古墳、
そして隼人・海部の伝承と記録。
さらには蝦夷、エビス、浦島、桃太郎、鬼、追儺となってつながってゆく。

--------------------

修験者は一方鍛冶にもすぐれていた。
英彦山の修験者の中には、
中世刀鍛冶として高名な行者もいた。

和気(別)氏にシャーマン的性格があるのは、
棄民にシャーマン的要素があるのと同じである。

したがって、棄民や和気氏がをシンボルとするのも、
その鍛冶神的性格だけでなく、
鳥にシャーマン的要素があったからであろう。

鳥は天と地の間を飛び、神と人を仲介する。

320香春神社11

香春神社 拝殿の鳳凰


鍛冶職にも鳥的性格があり、「鳥=鍛冶屋=巫」である。
「弘仁官符」によれば、辛島与曽女が「中間」になったとあるが、
「中間」とは媒介者・仲介者のことで
巫は神と人の「中間」におり、鳥である。

「祝」とは、「羽振り」である。

棄民の童子・童女が「火炬童子」として、
宮廷神事に奉仕したと『延書式』などに述べられているが、
神事(祭事)は火を炬くことからはじまる。

火は地から空に煙となって昇る。
また、天と地を結び、

夜(暗)の世界(神の世界)を明るくし、
昼(明)の世界(人の世界)に近づける。


火には鳥・巫と同じ要素がある。

火は鳥によって運ばれたとか、
火を制御するのは鳥とする説話が、
世界中に共通してあり、
鍛冶屋と火に関する伝承も世界中にあるのは、
火を使うのがシャーマンだからである。

神にもっとも近いのが童子で、
七歳までの子供は、神と人との間にいる存在と、
我が国ではみられていた。

朝鮮ではそうした子供を「太子」といった。

こうした性格を持つ「火炬童子」に、
特に秦氏童子・童女が選ばれ、
伊勢の斎宮の神事にも、
京都からわざわざ出向いていることからみても、
秦氏の性格が推測できる。

鍛冶や採鉱にかかわる人々の祀る神は、
「金屋子神」といわれ、
特に「子」がつくのも、
朝鮮太子信仰の影響とみられる。

そうした鍛冶・採鉱にかかわる非農業民の信仰が
聖徳太子の太子信仰と習合したから
太子信仰は、主に非農業民の信仰になっている。

秦氏が祭祀していた信仰は、
八幡信仰、稲荷信仰・白山信仰などといわれて、
一般庶民に普及・浸透しているが、
この信仰も、秦王国鍛冶信仰と根は同じである。

320香春神社21
福岡県田川郡  香春神社  空海さんと不動明王像。


p-186

太子没後の飛鳥・奈良時代に、
太子は、神仙・菩薩とみられているが、
平安時代に入って、太子信仰をひろめたのは、最澄である・・・

法華経の大きな功徳の一つは、
この弥勒の「功徳利益」であった。
たぶん最澄は、法華経の弥勒信仰を通して
太子を信仰したのであろう。

当時、弥勒信仰のもっとも盛んであったのは、
かつての秦王国のあった豊前であり、
彦山・香春岳などがそのメッカであった。

最澄は延暦二十三年(八〇四)七月、
入唐する前に、香春岳に登り、渡海の平安を願い、
香春岳の麓に寺を造って読経したので、
石山に草木が繁茂したという

(『続日本後紀』承和四年十方十一日条。
『叡山要記』『叡山大師伝』などは、
香春岳入山を延暦二十二年のこととする)。



p-195


空海が彦山・香春山・八幡宮に、
九州滞在中に遊行したらしいことは、
空海と稲荷の神との関係を示す伝承からもいえる。
空海が遊行した山・神社は、
すべてかつての秦王国の人々の信仰に関わる山・社である。
稲荷の神も秦氏が祭祀する神社である。


p-197


但し、前述の伝承が載る文献は鎌倉時代のもので、
平安時代中期の『弘法大師伝』や
『空海和上伝記』などの伝記類にはみえないから、
鎌倉時代になって東寺系の僧たちが
大師伝説として創作したものと前田夏蔭は批判しており、
伴信友は『験の杉』で、空海自らの「貯智」による妄説としている。

江戸時代の国学者としての信友の感情的批判は別として、
前田の批判は無視できない。

しかし、創作であったとしても、火のない所に煙は立たない。
『彦山縁起』を下敷にし、空海が筑紫で秦氏の神に会ったとする伝承は、
帰国後二年余の筑紫での行動の空自を埋めるなんらかの伝承があり、
その伝承を下にして、このような話が創作さりたとみるべきだろう。

「創作」といわれる小説やシナリオも、モデルがある。

前述したように、空海と棄民系の勤操との関係、
棄民と和気氏にかかわる高尾山寺を空海が居住寺にしていること、
東寺の鎮守の二神が棄民が奉斎する神であることなど、
秦氏空海の関係からみて、東寺系の稲荷伝承が創作であっても、
無視してしまうことはできないのである。


p-206

棄民と太子信仰・大師信仰


虚空蔵菩薩が自力による智恵増進・福徳・災害消除なのに対し、
弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰である。

これをミックスしたのが空海密教である。

空海の最初の著書である『三教指帰』は、
仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「慈悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、
将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。
それゆえ私は、旅支度をして、昼も夜も都史の宮
(兜率天)への道をいそいでいる」と言わせており、
『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べている。

また、空海が弟子たちに自分の死後のことを諭したという
『御通告二十五ヶ条』の第十七条には、

「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、
弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、
かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡を訪ねよう」とある。

平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「空海には高野山をもって弥勒浄土に擬せんとする思想も存在したらしい」と書くが、
秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、
空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。

したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、
空海は生身のまま高野山に入定し弥勒の下生を待っている、
という信仰も生まれ、更に空海は弥勒の化身とされた。

これは彦山法蓮と同じである。



『山の宗教』
五来重 角川選書

p-211


考えてみれば、そういう〔寄り来たる神〕のおるところには聖なる火が焚かれる。
〔寄り来たる神〕が火となって飛んでくる話は、〔龍灯伝説〕というものにあります。

常世国のことを竜宮といいますが海の彼方です。
そこから竜王が海岸の霊験なる神や仏のところに灯を献ずる。

主にお盆とか大晦日に献ずるという伝説が龍灯伝説です。
常世からお盆とか大晦日という霊祭り(たままつり)の時に去来するわけです。

ちょうどお盆に、霊がお墓なり山なりから迎えられて家で祀られるように、
霊の去来を現すのが竜灯である。
そしてそういう場所には、その目印になるような聖火を焚く。
聖火は航海の安全目的にも焚かれます。これが灯台です。



ウップルイ(十六島)

そこで火を焚くのは、じつは目的は聖なる火を焚くことで
そこへ神や霊を招き寄せるのですが、
二次的に航海目的になり、灯台の役目をする。

日御碕の方は、熊野修験が守っていた。
だから島根半島の西は日御碕、東の端は美保関です。
どたらも聖なる火を焚く場所です。
日御碕の東に位置するのが十六島(ウップルイ)です。

どうして十六島をウップルイと読むのか、
不思議でたまらなかったのですが、
偶然、二十年くらい前に、英彦山の方へ調査に行きました時、
英彦山の山麓で集められたお札を別府在住の
松岡実という民俗学者が持っておりました。

じつはその中にウップルイの謎を解くものがありました。
ようするに、ウップルイとは、日御碕の下の方に磯に生えた海苔です。

その海苔を紙包みにして、ここの山伏は配って歩いた。
英彦山の山麓あたりまで配って歩いた。
この海苔を食するものはすべての病、災いを打ち振るうべし、と書いて
打ち振るう=ウップルイになった。

みんな振るい落としてしまう。
それを、十六善神影向の地にちなみ、
前二文字の十六を採ってウップルイと呼んだというのです。

十六島海苔は、超高級品です! (^o^)

垂水1
出雲(旧平田市)の十六島(ウップルイ)港。 私の実家近くです。

そういうふうに〔神の寄り来たる〕場所に生えている海草まで
非常に神聖なので、いま平田市の一畑薬師にも、
眼の悪い人は毎朝、海岸まで行って、海苔を拾ってきてあげていた。
そのうちに目が見えるようになる。

一畑16
一畑薬師(薬師瑠璃光如来) 目に良いといわれるお薬湯

そういう常世からの贈り物のひとつの幸いが、そういうことに現れている。
そういうところに火が焚かれ、またそういうところほど
波が荒くて灯台がないとなかなか通れない。

出雲半島隠岐島の間は、
連絡船でいっても真ん中で揺れるところですが、
向こうの方の西の島には焼火山(たくひ)というのがあり、
江戸時代からこの沖を通る時には、
必ず松明に火をつけて海に放り込むという信仰があって、
絵馬がたくさんあがっております。

ここで焚いている火と日御碕が、ここを航海する船の目印だったのです。
同時に、大山(だいせん)もやはり見えた。

それで『大山寺縁起』の中には、難破して数日漂流しているうちに、
どことなしにぼやーっと光が見えたので、その方向へ進んでいったら、
それは大山の火であって助かった、という話も出ています。

大山火祭り
「火神岳」と崇められた 伯耆富士大山
大山火祭り(たいまつ行列の祭り)

今年は1300年の記念祭ですね♪

大山自身の火や、それを管理している美保関なり、
日御碕なりの火が大変漁民の信仰を集めたと思います。

ほくら11
神戸市東灘区 六甲山系 保久良神社 (標高189m)
「灘の一つ火」と呼ばれている灯籠です。


ほくら17

保久良神社のすぐそばに、
弥生時代の住居跡や遺物が多数出土しています。
カタカムナ文献が見つかったことで知られる金鳥山もすぐ近くです。

韓竈神社12
十六島(うっぷるい)の近く・・・
出雲(旧平田市唐川町)韓竈神社(からかまじんじゃ)です。

出雲国風土記(733年)には 韓銍社(からかまのやしろ)
延喜式神名帳(927年)には 韓竈神社(からかまのかみのやしろ) と記されます。

竈=朝鮮渡来の釜 
周囲は銅山で、岩は青銅色に光っています。

浮浪の瀧4
出雲   鰐淵寺・浮浪の滝 (がくえんじ・ふろうのたき) 
弁慶さんが修行したとされる滝。落差18m。
岩肌の岩窟には蔵王堂が作られています。

----------------------

英彦山★六甲山 修験道と山岳信仰 のまとめ記事です。

古代の中国大陸・朝鮮半島・日本列島には
日本人の祖先がいて、その山々には
仏教伝来以前から
古神道の中で生きてきた
修験者たちが繋いだ縄文ネットワーク。


そこに弥生文化が融合して
現代文明は築きあげられてきました。

私自身の縁の深い出雲・六甲を中心にして
英彦山周辺の文明遺産から
経済発展の歴史を紐解いてみました。

弥生の社会を縄文の心で生きる。
そんな人たちが日本を支えています。

龍・鳥・犬などの、これまで描いてきた神使たちと
私たちとの関わりを大切にしながら
古代の叡智に学び
新しい文明にふさわしい創造を
これからも広げていきましょう。

青谷道の瀬織津姫4



テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/02(水) 20:12:45|
  2. 英彦山☆六甲山 修験道と山岳信仰

英彦山★六甲山 修験道と山岳信仰 8 変わりゆく仏教

317高住神社23
英彦山 豊前坊高住神社 拝殿と磐座

『秦氏の研究』
大和岩雄 大和書房

p-108


金達寿は、香春神社のある福岡県田川郡香原町の「広報かわら」に
載っている江本淡也の「渡来人の町香原」の文章を引用しているが、
その引用文に「福岡県資料、明治十五年小字名詞べ」によって、
田川市、郡について調べてみたところ

・英彦山地区に 「カラクリ、唐臼谷、唐ヶ谷」
・猪位金地区に 「カラ池、唐花」
・方城地区に「唐ノ山、唐細工、カラ谷」
・大任地区に 「カラコ」
・香春地区に 「唐土町、唐人池、唐木」
・匂金地区に 「唐川、唐子橋、唐ノ町、唐人原「」
・採鋼地区に 「カラキゾノ、唐山浦」

「カラ」「唐」「加羅(加耶)」のことだと書く。

そして、香春の神を『風土記』が「新羅の国の神」と書くのは、
「風土記が出来た八世紀には加羅国の国はなくなて新羅の国になっていたのと、
その当時、新羅とは深い親善関係にもあったので、加羅の国神としたと考えられる。

実際、香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命で、
辛国(韓国=加羅国)の神であることからもわかると書いている。

『風土記』には、「新羅の国の神」とあるが、伽耶の国々は新羅に併合され、
首露王を始祖とする
金官加羅国の王は、新羅の王族になっているから、
『風土記』の頃は、「新羅の国の神」と書かれているが、
本来は、伽耶(羅)の国の神であったろう。


p-121


秦王国には仏教公伝以前に仏教が入っていた

豊前の彦山(英彦山)は、北九州第一の高峰(一一九九メートル)で、
九州修験の総本山だが、かつての案王国の聖山であった。

『彦山縁起』によれば、この山は、仏教公伝(五三八)より早い、
継体天皇二十五年甲黄(五三四)に、北魏の僧善正が開山したとあるが、
『彦山縁起』は、成立が平安中期以前に遡る
『熊野権現御重逆縁起』(略して『静野縁起』)に典拠があるという。
『熊野縁起』によれば、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、
最初は彦山の天降ったという。


いしっち ゆづるは きりべ

彦山から伊予の石鎚山
ついで淡路の遊鶴羽岳
さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山へ移ったとあり、
彦山へ最初に来たのを、「往古、甲寅年」とする。



p-122


仏教公伝以前に渡来した仏教の性格について、
五来重は、朝鮮への仏教渡来は、「道人」といわれる人が伝えているが、
「通人といわれる人々は、日本の優婆塞・禅師・聖などと呼ばれる民間宗教者にあたり、
仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して
党術・易占・託宣をおこなったものと思われる」から、
仏教、陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入ったと、推測している。

中野幡能は、五来のように公伝以前の仏教伝来を彦山に限定せず、
豊国全般に公伝以前に仏教は入っているとし、
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」と書き、
「少なくとも五~六世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と
そのもつ原始神道と仏教が融合している事実がみられる」と書く。

そして用明天皇二年(五八七)に、豊国法師が参内しているから、
六世紀末には「九州最古の寺院」が「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていた」とみて、
「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して
六世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に
入ったものではあるまいかと考えられる」と書く。

このように、五来・中野の両氏は、
仏教公伝以前に、豊前に仏教が入ったとみているが、
なぜ、豊前にいち早く仏教が入ったか。

そのことについて、五来垂は説明していないが、
中野幡能は、豊前の「秦氏と新羅人の関係」から入った、とみている。


p-123


仏教が公伝以前に入っていたことを示す例に、「豊国法師」がいる。
『日本書記』用明天皇二年四月二日条の豊国法師の記事(一〇三頁参照)は、
『日本書紀』に記されている「法師」(「法師」は僧をいう)という文字の所見だが、
「法師」の所見記事だから、当然、法師を初めて内裏に入れたこと、
天皇の病気を治療するのに初めて「三宝(仏教)」によったことも、初見である。

★江戸時代の森春樹は、藤原恒雄が豊国法師という

雄略天皇の病気治療には、巫が内裏に召されているが、
この巫は巫部連の統率下に入っている(一〇一貫参照)。

この巫部を無視して、用明天皇は「三宝」によって、病気を治療しようと詔したので、
天皇の詔に反対して、物部守屋中臣勝海は、
「何ぞ国神に背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事しを識らず」といった。
物部守屋らが反対したのは、天皇の病気の治療は、
「他神」の「仏教(三宝)」でなく、「国神」の「巫術」だったからである。


p-124


田村囲澄は、「『豊国法師』は、一人の僧を示すよりは、
むしろ医療にあたる豊国の法師団と解すべきであろう」と書いているが、
当時(用明二年)、飛鳥にいた法師は、高句麗慶便一人だけで、他にはいなかった。
それなのに、豊国には法師団がいたのは、仏教公伝以前から、
五来のいう「道人」による朝鮮の民間仏教が、豊国(秦王国)に入っていたことを示している。


p-127


五来重は、仏教公伝以前に彦山に入った仏教について、
新羅仏教に限定せず、朝鮮仏教として論じているが、
豊国へ入った仏教は、中野幡能が指摘するように、新羅仏教である。

新羅は法興王(在位至四~盃〇)が公式に仏教を受容しているが、
新羅への仏教伝来は、それ以前からである。

田村囲澄は、公認仏教以前の新羅への仏教伝来について、次のように述べている。

新羅の仏教伝来は、前砥王(在位四一七~四五八)の時代であった。
すなわち、高句麗から僧の墨胡子が一善郡の毛札の家に来たが、
毛札は家の中に窟室をつくり、仏像、経典、および墨胡子を安置した。

これが新羅仏教のはじまりであるという。
墨胡子は、名前から推察すれば、肌の色の黒い西方の人ということであろう。

毛札の家にいた墨胡子は、いずこともなく姿を消したが、
次に批処王(在位四七九~五〇〇)の時代に、高句麗からきた僧の阿道が、
三人の侍僧とともに、再び一善郡の毛札にとどまった。

数年の後に阿道は死んだが、侍僧たちは経典の講義をつづけ、
その感化により仏教信奉者があらわれるようになったという。

ともあれ高句麗から伝えられた新羅の仏教は、北朝仏教の系譜を嗣いでいた。
(中略)新羅の仏教伝来の経過をみると、まず五世紀以前に、
高句麗から来た僧が一善郡の毛札の家にとどまり、仏教をひろめた。

いわば私的かつ地方的な仏教の伝来である。
一善郡は善山(韓国慶尚北道)に比定される。
毛札が自宅に墨胡子を、次に阿道わ迎えたのは、毛札がすでに仏教信者であったからであろう。
毛札が高句麗からの渡来系氏族であったことも考えられる。
一善郎の私的ろ・地方的な仏教が中央に広まり、法興王が仏教に傾斜した。

ここに書かれている方興王以前に新羅に入った仏教は、「道人」による「私宅仏教」である。
わが国へも、仏教公伝の五三八年に、秦王国以外にも「私宅仏教」が入っていた伝承がある。


p-130

彦山四十九窟は法蓮伝承と結びついているが、
六郷山の山岳寺院も、法蓮が初代別当であった弥勒寺の別当に所属しており、
ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっている。

しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、
それ以前に新羅に入っていた「私宅(草庵)仏教」と結びついている。

新羅の「私宅仏教」は、高句麗の「道人」の墨胡子や阿道が新羅に来て、毛札の家で拡めたというが
(田村園澄は毛札も新羅にいた高句麗人とみて『後漢書』東夷列伝の高句麗の条に、

其国東有二大穴一、号二極神一。
亦以二十月迎而祭之 とあり、『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、

其国東有二大穴一、号二随穴一。
十月国中大会迎二随神一:撃於国東一上祭之、置二木随於神坐一。とある。

大穴を、極神・随穴・歳神などと書いているが、土橋寛は『魏志』東夷伝高句麗の条の「随穴」に、
「置二木陸r於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、
木随を豊餞を祈る木枠のようなものと解釈し、
新羅の皇子天之日矛を祭る大和の穴師兵主神社の祭神が、御食津神で
神体が日矛であることと関連させて、御食津神を歳神、神体の日矛を木随とみている。

洞窟に「木随を置いて神坐す」とするのは、家の中に「窟室を作り、仏像を置くのと共通する。
槌神・歳神の木槌が、仏像になったのであり、高句麗の民間信仰に仏教が習合している。
この高句麗の「私宅仏教」が新羅に入ったのである。
土橋は、天之日矛(日槍)を木随と見立てているが、
天之日矛を祭る穴師兵主神社は、穴師山にあったが、穴師山は弓月嶽という


p-139


ある期間、花郎がこのような洞窟内に籠もったということは事実とみてよかろう。
花郎が遠遊して一時帰らなかったという伝説、
例えば夫礼郎や宝叱徒太子の伝説のごときもまた、
この間の事実に発源するものではあるまいか。

実際に、男子集会の入信者や指導者である呪師が或る一定の期間
聖場に忌籠ることは普通な習俗であり、花郎の場合もまた同様であったらしく、
既述のごとく金庚信は花郎時代に中嶽石堀中で斎戒修行したのであった。(中略)

恐らく花郎が衆徒を領して遊娯した場合、
こうした最も神聖な洞窟の中へは花郎のみが忌み籠ったものであろう。と書く。

『彦山流記』は、震旦国「王子晋」は、
彦山の磐窟に雨降り、四十九箇の洞窟に御正鉢を分けたが、
分けられたのは「天童」であり「金剛童子」だと書く。

洞窟内の天童・金剛童子は、王子晋の分身であり、洞窟にこもる花郎と重なる。
花郎も少年だが、彦山伝承でも、洞窟にこもるのは「王子」「天童」「童子」である。
こうした花郎のこもる洞窟を、新羅で「弥勒堂」というのは(季穀『東遊記』)、
弥勒=花郎とみていたからであろう。

p-140


このように彦山・宇佐八幡宮の伝承は新羅花郎弥勒の化身とみる発想による。


p-141


当時、大和政権の都のあった大飛鳥の仏教は、公伝の百済仏教であった。
この百済仏教に対し、新羅仏教を公式に入れたのは、
聖徳太子と太子の寵臣の秦河勝である。

平野邦雄は、「百済仏教を通じての蘇我-漢-今来漢人の一貫した結合関係に対し、
同時代の秦氏が新羅仏教への親近性を示すのは、仏教興隆をめぐる蘇我-漠と、
これに対する聖徳太子-秦河勝の勢力的結合によるもの」とみて、
「蘇我氏の伝統的な百済救援と任那復興政策」に対し、
聖徳太子の外交政策のちがいを詳述している。

また、平野は、蘇我氏の新羅敵視政策に対し、太子は秦河勝をとおして新羅も百済と同じに
友好国として対処していた事例をあげ、そのような太子の外交政策を「一層あきらかにするのは」
「太子の死後、ただちに蘇我氏によって、新羅に対する軍事行動が復活されたこと」をあげている。


p-152


香春郷の桑原は、桑原屯倉のあったところだが、(二六〇頁)、
屯倉の管理にあたる三宅連の祖のタジマモリは、
新羅国の皇子天之日槍である(『古事記』『日本書紀』『新撰姓氏録』)。
この新羅系のタジマモリは、常世国へ渡り「非時香葉」を持ち帰っており、
新羅と常世はかかわっている。

中野幡能は、
「豊前国の場合、彦山を始め、これらをめぐる山岳修験を隆盛にした山々で、
白山神を祀ってない山は皆無といってよい」と書き、
「九州に入った修験道信仰は確実には十二世紀の熊野信仰が始めてである」のに、
「北部九州にみる『白山神』は、ほとんど奈良時代、または平安時代に勧請されたとされている」から
修験道によって「加賀白山信仰が九州に入ったとは考えられない」とみる。

そして豊前の白山信仰には、白山・小白山の信仰があるから、
中野は「北部九州、特に豊前国における『両白山』の信仰は、
古くは『太白山』『小白山』の信仰、
つまり中国や、朝鮮の慶尚北道、江原道の境にある太白山、小白山の信仰で、
その神も、太白山上に現れた桓因、桓雄、桓検の三神に関係があるのではあるまいか」と書く。


「桓因、桓雄、桓検の三神」について

韓国にも山岳信仰は古くから発達していた。
『三国遺事』によると檀君の信仰がみえる。
檀君は帝釈天桓国の子桓雄との間に生まれた神人であるとある。
金得模氏によると朝鮮の古代信仰に「神教」のあることを述べ、
その民族の始祖を檀君としている(『韓国宗教史』一九六二年、韓国思想研究所)。

この宗教を「大信教」といっているが、白頭山を中心に広く分布している。
その教義は、神教的信仰の対象を桓因(上帝)、桓雄(神市)、桓検(檀君)の三神であった。

桓因は万象を主宰する造化神であり、

桓雄は人の世を救うために、天符三印をもち、
霊師・雨師・風伯をつれて太白山におりた神人である。
桓雄は古代朝鮮を開いた教化の神として、民衆を治めた。

桓検檀君であるが、君主として古代朝鮮をつくったという。
(金得桟『韓国宗教史』『韓国-その民族と文化-』、
金思樺『朝鮮の風土と文化』、今西龍『朝鮮古史の研究』)

しかして大信教では、この三神は一体で、
いわゆる上帝ハン二ム(神)であり、
しかもこの信仰は現在も民俗信仰として遺っているという。


p-155


水谷慶一は、「四世紀頃よりアジアの東北部に幡居した民族に勿吉があり、
これは後に靺鞨と名を変えるが、この靺鞨と七つの部族の中に、
『白山部』という支族が存在する」という。

『白山部』は、白頭山を主峰とする長白山脈をはさんで
成興、間島、豆満江流域の諸平野から日本海に至る広大な地域を占めていた。

彼らは高句麗族と同じくモンゴロイドの血が混じったツングース族であり、
七世紀末、唐によって高句麗が滅亡した後は、
全ツングース族を糾合して渤海国を建国した雄族である。

渤海の建国者、大群栄が『白山部』の出身だとする説が古くからあり、
高句麗や渤海の水軍の活躍を通じても推察せられるように、
彼らは航海に長じた民族であった。

白頭山=太白山の信仰は、おそらく彼ら『白山部』の中で育まれ
日本海を渡って運ばれたものと想像されるのである」と書いている。

このツングース系の信仰は、地理的位置から見て、
加賀の「白山」と無関係ではない。


楼蘭善は、「不成文化論」で、
朝鮮には白(park)の字を持つ白頭、長白、祖白、太白、小白、鼻白、
旗白、浮白、白雲、白月、白馬、白鶏、白華などの山が至る所にあり、
自の音(または訓)の転註・仮借とみられるものを加えれば、
朝鮮の山の多数にのぼると書く。

また、『朝鮮常識・風俗編』では、
朝鮮では天主(王)の子孫が域内の代表的山嶽に鎮座していて、
そこの住民の生死禍福を菅掌していると考えられていると書き、
「生」はその聖山から俗界に出てくること、
「死」は俗界から聖山に帰還することで、
聖山は生命の故郷であると書く。

そして、朝鮮語の「生」を 〔芽が〕 ヰヰ(nada生まれる)



p-156

金剛山は新羅花郎が聖山として登る山のトップだが、
花郎を弥勒の化身とする新羅の弥勒上生・下生信仰は、
死と再生の信仰で白山信仰と重なる。


p-158


北部九州の白山信仰は、北陸の白山信仰とちがって、
「必ず天童の信仰が附随している」と、中野幡能は書いている。

天童信仰のもっとも盛んなのは対馬であり、
対馬には「白」を冠する山が、前述したように多い。


記・紀神話では、天忍穂耳命でなく、その子のニニギが天降っているが、
ニニギにするわけにいかないから、オシホミミにしたのである。

桓雄は太白山に天降っているから、桓雄をオシホミミに変えたのであり、
この伝承の根は、朝鮮の始祖降臨の檀君神話にある。

朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承で語られていたが
(但し、「藤原恒雄」と日本人化してはいたが)
それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命となり、
香春神社の祭神忍骨命となったのである。

『彦山流記』は、彦山に降臨した「王子晋」の分身を「天童」というと書くように、
王子晋も御子忍穂耳命(忍骨)も、同じイメージである。

彦山の「彦」は「日子」で、日の御子の意である。
対馬の天童伝説では、天童を日の御子とみている。


p-159


こうした天童伝説は、加羅の始祖王の伝承とも共通する。
-----------

加羅国始祖王【赫居世】

朝鮮,新羅の伝説上の始祖・赫居世王(在位前 69~後4) 。
『三国史記』『三国遺事』によれば、昔、慶州地方に6村があり。
各村長が集って自分たちを統治する君主を求めていたところ、
揚山のふもとでしきりに馬がいななくので、
そこへ行くと大卵があり割ってみると男児が現れた。

この子が赫居世。6村の推戴により13歳で即位。
始祖が卵生で降臨する型の神話はアジア各地でみられる。
こうした神話は「賜姓」伝説とともに
新羅成立後に生れた伝説といわれている。

赫居世の名は、閼智(あつち)。
民間伝承に多く用いられる閼智は穀霊を意味する。
水神の王后・閼英(あつえい)をえて、
はじめて天候と土地との結合する農耕神話=建国神話が完成する。

-----------

317高住神社29

新羅仏教の、家の中に窟室?
・・・こういう感じなのかな?

それをちょっと想像させられる、高住神社本殿の写真です。
磐と建物がくっ付いているのが、当初はとても不思議でした。

英彦山周辺の磐座めぐりはしていません。
でも、周辺に面白い岩がたくさんありそうですね。

鷲林寺6

こちらは六甲山麓鷲林寺(じゅうりんじ)の岩窟です。

2013鷲林寺10

六甲山麓には、空海開基の鷲林寺があります。
鷲不動明王(麁乱荒神)が祀られています。
岩窟には八大竜王が祀られています。

この近辺はその昔、宿坊だらけだったと言われています。
もしかして英彦山周辺にも似ているところがあるのかも?

こち六甲は「鷲・ワシ」で、
英彦山は「鷹・タカ」の住処でしたね。

裏六甲には、唐堰という地名があり
周辺は多聞寺をはじめ、修験道・山岳信仰の寺だらけです。

少し離れた三木市にも、伽耶院があり、
新西国三十三か所めぐりの札所となっています。

新西国~のルートは、
空海・聖徳太子に縁のある寺院ベスト33なのです。
すべて廻りました。
修験道・山岳信仰のなんたるかを
そのとき、ちょっとだけ、掴めたような気がしました。

鳥さんたち、熊さん、、、
そのトーテムや、神使たちと
山の中で出会えるのも楽しいです。


公式な「仏教伝来」のはじまり以前に、仏教が存在していて。
それも原始神道と、移りゆく信仰形態の融合でした。

日本という国は「受け入れて和す国」
それがとてもよくわかるお話でした。


テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/01(火) 16:33:53|
  2. 英彦山☆六甲山 修験道と山岳信仰

英彦山★六甲山 修験道と山岳信仰 7 山の天狗・里の権力

317英彦山15
英彦山神宮奉幣殿
修験道時代の霊仙寺の大講堂



『天狗と天皇』
大和岩雄  白水社

の天狗は反権力。
権力はにあり。
山は里・中心と対立する異界・周辺・鞍馬天狗の大天狗。

御供の天狗として
・英彦山の豊前坊・白峯の相模坊・大山の伯耆坊
・飯綱の三郎・富士の太郎・大峯の前鬼・葛城の高間(高天)
・京都近辺の比良・横川・如意が丘・高尾・愛宕山の天狗をあげる。

そのように日本中の修験の山の
天狗牛若を守っているのは
本来は東密・台密に関係なく、
仏教がわが国に伝来する以前からの
固有信仰である山岳信仰天狗信仰は根ざしているからである。

その固有信仰を特に色濃く受け入れた密教は
空海真言密教であった。

山の神としての天狗は
里の権力にとっては荒ぶる神・魔であり反権力の物の怪である。



『八幡信仰と修験道』
中野幡能 吉川弘文館

p-6

医師関係の技術者は(允恭紀以後)六世紀頃・朝鮮半島や大陸から招く。

大宝令・・・僧尼で小道巫術(療病)は還俗・・大陸の医術を重視
文武三年・・役小角が流される・・大峯修験の開祖
四年・・法蓮は賞せられる・・彦山修験の開祖


p-63

古くから豊前国では秦氏の伝統的力があった。
さらに屯倉の設定管理には
秦氏が大きく役割を果たすことになっていたとされる。

もともと秦氏は5世紀末には諸国分散の秦氏を集め、
伴造の秦酒公に賜ったので朝廷に対する信頼は強く・・
宇佐郡での秦氏配下の辛嶋勝の勢い強化・・
宇佐氏国造家総家の墳墓は6世紀で切れている。

・・秦辛嶋勝の圧迫・・宇佐は磐井の乱に味方したのか?・・衰退・・
庶流宇佐氏・・僧法蓮が復興・・沙門・大官寺で得度?

法相宗・飛鳥で道昭に師事?
・彦山伝・・新羅花郎道文化を導入し
原始修験道を修め人民救済
開基・虚空蔵寺の建立と辛嶋氏の神北辰社
宇佐市氏の聖地小椋山にはいるのは大宝元年(託宣集)

p-76

新羅国の花郎文化
これが統一新羅を作り上げるイデオロギーであった。

この花郎道、あるいは花郎文化というのは
中国の道教仏教、それに韓国のシャーマニズム
こういうものが渾然一体になったもの。

この花郎たちは・キョンジュ(慶州)の南にナム(南)山
この山で厳しい、いわゆる山岳練行をしていた。

そういうわけで豊前国にはいった新羅文化のはじめは
檀君を祀っていたのが、
7世紀の終わりから8世紀のはじめの頃には
北辰の神・たんなる北辰神ではなくて、
弥勒菩薩半跏思惟像をした
道仏巫融合の北辰神(北辰神は中国道教の最高神)
英彦山が修験道のメッカ
花郎道は道教的な医術

『彦山流記』『託宣集』
法蓮は香春岳・英彦山で花郎道の厳しい修行をし
弥勒菩薩の化身ともいわれる。


p-347


修験道が教団化する推進力は
古代文化の先進地ヤマト・・葛城・金峯山・紀伊熊野山・・

しかし、地方にも母体になる山はあった。
・・伊予石鎚山・加賀白山・出羽羽黒山・豊前彦山


『山の宗教』
五来重 角川選書

p-14


『熊野権現御垂跡縁起』(平安中期)
熊野を開いた人々は中国の天台山の王子信だといっている。
天台山は仏教の山。そこの地方の領主の王子であったかもしれない。
あるいは王・子信と読むのかもしれない。

この人が日本へ渡ってきて熊野の神になる。
一番最初は彦山へ飛んできたと書いてあり
水晶の石になって飛んできたとある。

これの意味するところは、
仏教渡来以前から、彦山・熊野は開けていたということ。

山岳宗教というもの、修験道というものの発祥は
仏教の渡来とは関係がない、
むしろ仏教渡来よりも古いということである。

実はそれは吉野修験の主張にもあり
吉野修験の方は、その発祥を欽明天皇十四年に置いている。

欽明十三年に仏教が伝来して、翌十四年
だいたい五ヶ月ほど後に、吉野の御神体の楠木が寄ってきて
それを刻んで吉野放光仏ということになり吉野は開けたというのですが、
これはだれが考えてもそうでしょうが欽明天皇十三年としてしまうと、
それ以前に仏さんがきていたというのはまずいことになるので
当時の『日本書紀』編纂委員会が考えて、
せめて仏教公伝の次の年ぐらいにしようとしたのだと思います。

とにかく仏教渡来以前から熊野は開けていた。

-----------------------------------

役小角さん1

六甲山の麓にある、住吉川の上流です。

周囲に白鶴記念美術館あがあります。
役小角さんの像がひっそりと佇んでいます。

六甲山は、大峯修験の影響を
大きく受けているのでは、と思います。

そして、英彦山のほうに向かって
遥拝するように仕掛けられているように見えます。

ソサノオの歌・・・

ヤクモタツ イツモヤヱカキ ツマコメニ ヤヱカキツクル ソノヤヱカキワ

熊野修験は、
八重垣の雲を張り巡らせているかのよう。
そんな世界のように思えます。

この場所は、ウォーキングしている時に見つけたのですが、
地元でも知っている人はあまりいないんじゃ良いかな、
・・・と思うほど、気付かれにくいところにあります。

ここは一般的なハイキングコースから外れた穴場です。
とても眺めが良いですよ。

他にも六甲山系には、空海さんの軌跡もたくさんあって
すでにこのブログでは何度も紹介済みです。
みどころはいっぱいです。

英彦山周辺にお住まいの方たちにも
ぜひ訪れて見て頂きたいですね。

似てる! (^o^)

びゃくしんweb1

イブキ(伊吹、学名:Juniperus chinensis) 別名: ビャクシン(柏槇)

静岡県沼津市にある、伊豆半島・大瀬崎(おせざき)
大瀬神社の御神木です。

ここも、天狗と牛若の神社でした。

このイラストを描いているとき
鞍馬山麓の八瀬と、大瀬﨑の断層が、やたら気になっていたのでした。
山伏さんたちの役割って、私たちが知っていることだけではない、
一般には知られることのない大きな御役目があるのでしょうね。





テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/04/30(月) 22:11:47|
  2. 英彦山☆六甲山 修験道と山岳信仰
次のページ