瑠璃の星☆彡

写真・イラスト・旅日記

美女ヶ森  押姫と宮簀姫   

美女が森1(web用sin)

大御食神社 ( おおみけ神社)  イラストのpart.2です。

こちらのイラスト記事の続きです。↓

大御食神社・御影杉 ヤマトタケを迎える赤須彦と押姫
http://ruri87.blog18.fc2.com/blog-entry-1545.html


前回は御影杉が主役でしたが
今回は美しの森を主役にして描いてみました。

-------------------------------------------
大御食5

【名 称】  
美女ヶ森  大御食神社 ( おおみけ神社 )

【御祭神】  
日本武尊
宮簀姫  またの名を 厳郎姫・五郎姫 (イツイラツヒメ)
八幡大神 (譽田別命・応神天皇)

【由 緒】 
景行天皇の御代、日本武尊東征の帰途、里長赤須彦の饗を受け三夜を同地に過ごし、赤須彦に御食津彦の名を賜る。
景行天皇48年(118)、赤須彦が日本武尊を祀り、大御食ノ社(おほみけのやしろ)と名付る。
応神天皇36年(307) 7月22日、熱田の草薙の剣の霊代と 美女社の宮簀姫とを迎え地名を 『 美しの社 』 とする。
元慶 3年(873) 石清水八幡宮から八幡の神を迎え、日本武尊と宮簀姫(五郎姫)を相殿に奉斎。
明治五年 郷社に昇格
昭和42年 神社本庁より 献幣使 参向指定神社となる。

-------------------------------------------
神社についての関連記事はこちらです。↓

大御食神社(おおみけじんじゃ)
http://ruri87.blog18.fc2.com/blog-entry-1540.html

美女が森2(web用sin)

地名の話

宮簀姫のふるさと、 「美女ヶ森」

大御食神社のある鎮守の森を 古来から 『美女ヶ森』 という。
ではなぜ 『美女ヶ森』 なのか? その名称を考える。

阿比留草文字で書かれた社伝記には、
「 応神天皇38年(307)6月9日 朝未だ暗きときに、上穂の里足彦の弟子『ヤオトリ』に 日本武尊(の霊)が懸かり、イツイラツヒメと共に草薙の剣の霊代を迎えよ と告げた 」
「 その秋7月20日、熱田ノ宮より草薙の剱の御霊代、また 『美しの杜と御名する 熱田ノ杜』 より、宮簀姫 またの名をイツイラツヒメ(厳色姫)を迎え奉る 」
と記されている。。

社伝記 「美社神字」 を解読した 落合直澄は、イツイラツヒメを 「厳色姫」 と表したが、現在は 「五郎姫」 と記されている。
では、『宮簀姫 またの名を イツイラツヒメ』 と社伝記に書かれている 「イツいらつひめ」 とは どういう意味なのでしょうか?
                         
例えば、沖縄の八重山地方には その昔、島の女性が愛する男性に
“いつ(五)の世(四)までも どうか一緒に” との思いを込めた、
五と四の柄が並ぶ 「ミンサー織」 という 「絣模様の織物」 があり、現在でも 伝統工芸として伝わっている。

このように、「イツ」 は、いつも(何時も)という意味。

それに、上代には 若い女性を親しんで呼んだ語で、『いら‐つ‐め【郎女】: いらつひめ』 という言葉があり、
「イツイラツヒメ」 とは、「いつも美しい若い姫」 という 「愛称」 であり、
その姫の宮簀姫 がおわします熱田ノ杜を 「美しの杜と御名する 熱田ノ杜」 と呼んだのではないだろうか。
それ故、大御食神社も「美しの杜に坐す宮簀姫」をお迎えして、地名を 『美女ヶ森』 と呼ぶようになった。

【参考】
『尾張国吾湯市群火上天神開始本伝』 には ”小止女命”(おとめのみこと)、
『熱田祠官略記』 には ”小止女命 またの名を宮簀姫” と記されている。
また 「ミヤスというのは、元来は 『宮主(みやす)』 であり、”神剣を祀る 宮の主” という意味である」 という。
【通説】
宮簀媛は 尾張国造 乎止与命(オトヨ)と 母 眞敷刀婢命(マシキトベ)との子。


↑上記は、 地名は第一級の歴史資料 
http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage3-3.html
(「伊那の谷から古代が見える」伴崎史郎さんのブログより引用)

美女が森3(web用sin)

押姫

熱田ノ杜より宮簀姫をお迎えする以前に
この美しの森には、もうひとりの美女が存在していました。

赤須彦(御食津彦)の娘・押姫です。
オモイカネワカ姫に繋がる子孫のようです。

美女が森4(web用sin)

日本武(ヤマトタケ)尊


社伝記「大御食ノ社 年代記」を解読した落合直澄は 「美社神字」とし、
また近年 吾郷清彦氏はこれを「美しの社物語」と題して著書で紹介、全国に知られるようになりました。

「大御食ノ社 年代記」には以下のように記されているようです。

・日本武尊が東征の帰途、赤須彦から接待をうけ、娘の「押姫」と三日三夜過ごしたこと
・大御食神社の創立の様子
・植継ぎされている御蔭杉のこと
・千年前の農事「稲虫送り」の様子など

景行41年(AC111)から村上天皇(943-956)の御代までの約840年間の出来事が
神代文字の『阿比留草文字』で記されており、
これに則って神社の行事祭典等が行われています。

--------------

東征の岐路の尊を、里人は御影杉の下に仮宮を設けて迎えました。
そして湯奉の沢の清水で大御湯、栗餅を奉り、尊に従うことを誓ったのです。
また、中沢の熊鰐が採った山の物、野の物、川の物をもって大御酒、大御食でおもてなしました。

は赤須彦(御食津彦)の娘の押姫と三夜お過ごしになり、別れに詩を残してゆきました。

「二夜三夜二人寝哉 飽ぬかも 美くし少女愛哉 居立 愛哉少女」


押姫答えて曰く

「愛哉 我大君の御手に纏く 玉持日根子不忘 玉持つ 日根子不忘 吾夫標延  吾夫標延」



美女が森5(web用sin)

赤須彦(御食津彦)は、赤津の里人と共に尊をお送りし、
尊の御座した所の小石を「御手掛石」または「皿石」と言ったのです。

村人は尊を称え、景行天皇五十八年、神殿を建て鎮祭し「大御食神社」と称しました。

応神天皇八年、五郎姫(宮簀姫)を尾張の国より迎え同殿に合祀し「美女ヶ森」と称しました。

------------------------

「美女ヶ森」は、押姫宮簀姫 
ヤマトタケが愛した、ふたりの美女がいる森なのです。

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2016/01/08(金) 23:20:10|
  2. イラスト