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瑠璃の星☆彡

写真・イラスト・旅日記

『邪馬台国ラプソディ』 聖地巡礼 34 筥崎宮

319筥崎宮1

2018/3/14(水)~3/20(火)に旅してきた
小説『邪馬台国ラプソディ』 の聖地巡礼レポートです。

邪馬台国2

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3/19の朝を迎えました。
昨晩は博多のニューオータニで宿泊しました。
3/14に小倉駅に降り立って以来、
それまで海や川の流れ、山の風向きに触れる旅が続いていましたが
ぐるりと回って福岡の中心地へやってきました。
博多周辺は、大きな人の流れを生み出す街ですね。
それもまたパワフルです。

319筥崎宮2

3/19は雨でした。
少し肌寒く、冬に逆戻りしているかようです。
関東以北では季節外れの雪が降るというニュース。
なにかが変わり始めている気配。。

そんな中、これから主要な神社を巡ってゆきます。(^o^)

この日、最初に参拝したのは、筥崎宮でした。

319筥崎宮3

とても立派な楼門です。

319筥崎宮4

楼門の扁額には 【敵國降伏】 と書かれています。

鎌倉期、亀山上皇が納められた
御宸筆(天皇の自筆)を模写拡大されたものです。

その意味は、
武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく、
徳の力をもって導き、相手が自ずから靡き、降伏するという
王道である我が国の在り方が説かれています。

319筥崎宮10

【御祭神】

・應神天皇
・神功皇后
・玉依姫命

創立は 延長元年
皇紀1583年
西暦923年

319筥崎宮6

【御由緒】

筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。
御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた
応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。

創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、
古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、
醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、
この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より
遷座したことになっております。創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、
海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。

319筥崎宮5

【明治天皇御製】

さしのぼる 朝日のごとくさはやかに もたまほしきは 心なりけり

人の心は、ともすれば、しめったり、暗くなったりするものであるが
夜明けの空に、やがて力強くのぼっていく朝日のような
さわやかな心でいつも生きてゆきたいものである



明治天皇の御製が、すーっと沁みてきます。

私には、日田のダンワラで詠んだ、この歌の・・・

日高見の 鶲舞ふ春 両神に 真澄の心 捧ぐ夜明けよ   
ひたかみの ひたきまふはる ふたかみに ますみのこころ ささくよあけよ

返し歌を賜りましたように感じられました。

(*'∀'人)♥*+

真に誠に ありがとうございます。
なんだかhappyです。
今日も良い旅になりそう。
そんな予感がしました。

319筥崎宮7

御神木の筥松(はこまつ)です。

応神天皇が筑紫国宇美の里(糟屋郡宇美町)にて
お生まれになった時(西暦200年)
その御胞衣(おえな)を筥に納めて
波の音も静かな白砂青松の浄地に埋め
標しの松を植えたと伝えられている。

それがこのところであって、その後この地を箱崎と称え
この松を「標しの松」または「筥松」といい御神木として尊んでいる。

千早振る  神代に植えし  箱崎の  松は久しき  標しなりけり

(続古今集) 法印行清

宇美=産み ですね。

319筥崎宮8

必勝祈願も、敵国降伏で。 \( 'ω')/

319筥崎宮9

願い事も、徳のチカラを持って自身の内から叶えていけますように。

319筥崎宮13

神功皇后といえば、御神木は大楠です。

319筥崎宮12

こちらでも見事な大楠さまに出会えました。

319筥崎宮14

う~ん、ダイナミック。 素敵です。 (/・ω・)/

319筥崎宮15

苔むした、さざれ石。

319筥崎宮16

大楠の傍には、夫婦岩がありました。

謡曲「唐船」は、日本に捕らわれた唐人・祖慶官人が箱崎殿(筥崎宮大宮司)に仕え
日本人妻との間に二人の子をなして平和に暮らしていた。
やがて唐土に残した子供二人が迎えに来たので箱崎殿はこれを憐み
日本で生まれた子も連れて帰ることを許した。
そこで親子共々喜んで帰ったが、夫婦、母子別れの悲劇もからまった物語である。


箱埼のいそべの千鳥親と子と、なきにしこえをのこす唐船

祖慶官人と妻とが別れる時に腰かけて
名残を惜しんだといわれる一対の石。 「夫婦石」です。

319筥崎宮17

元寇防塁

【蒙古軍船碇石】

文永11年(西暦1274年)10月20日 蒙古軍3万は、900隻の艦船に乗って博多に迫り、
終日わが軍と激戦を交え、本宮も兵火によって、消失したのであったが、
翌21日朝には、意外にも湾内から姿を消してしまった。

世上これは神風によるものだという。

古来博多附近には蒙古軍船の碇石と称するものが10数本あり、
肥前から壱岐にかけても5本ほどあって、いずれも海中から引揚られたものであるが、
場所がら歴史的記念物であるとして珍重されて来た。

この碇石は博多港中央波止場附近の海中から引揚られた6本中の1本であって
石質は凝灰岩で、この種の石材は蒙古軍の造船地であった
朝鮮全羅南道長興南方天冠山に求めることができるそうです。

319筥崎宮20

【亀山上皇・銅像】

元寇(蒙古襲来)に際し、
「我が身を以て国難にかわらん」
敵国降伏の祈願をし、
博多の街の安寧を祈願された亀山上皇を顕彰像です。

明治37年(1904)完成。
約6メートルの大きさです。
この銅像の原型となる木彫像を製作したのは、
福岡県出身の彫刻家・山崎朝雲です。

319筥崎宮19

「敵国降伏」は、歴代天皇の祈りが込められている
徳のチカラの籠った「言霊」だったんですね。

319筥崎宮18

この石に触れると運が湧き出るといわれています。

「国に一大事があるとき、地上に姿を現す」

そんな言い伝えが古くからあるそうです。

要石の役割があるのかな。
撫でるように触れてきました。

319筥崎宮21

博多では筥崎宮前の海岸の真砂を“お潮井”というそうです。

これをもって身を清める。
春秋の社日祭の“お潮井”は特に尊いものとして扱われています。

いそのはの  まさこはよみてつくるとも  ほつまのみちは  いくよつきせし 

三輪の祭祀を務めるオオタタネコが捧げた
「ホツマツタヱ」の奉呈文を思い出しました。

319筥崎宮22

七種の縁起物があり
お守りとして求めることができます。

「ちゃんぽん」っていうのは、なんだろう??

まさか、あの「長崎ちゃんぽん」ではないよね (・・?

319筥崎宮23

この「びぃどろ」みたいなのが、ちゃんぽんでした。

へぇぇ~ 初めて知りました。 

カワ(・∀・)イイ!!

319筥崎宮24

縁起物の、平和の象徴・八幡鳩さんと、ちゃんぽん。

カワ(・∀・)イイ!!

319筥崎宮25

博多守護之武勲
少弐景資(しょうに かげすけ) 

人形師の方が奉納された、見事な景資の雄姿です。

元寇に際し、大将軍として九州御家人達の指揮にあたり、
父の資能や兄・経資と共に蒙古軍と戦った。

『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、
景資は10月20日での博多湾沿岸での戦闘において「日の大将軍」であったと言い、
景資ないし彼の郎党が蒙古軍の副司令官の一人(征東左副都元帥)であった
劉復亨と思しい人物(流将公)を矢で射止める大功を挙げたと言われている。

弘安4年(1281年)の弘安の役にも参陣して奮戦した。

父・資能の死後、兄・経資との間で家督をめぐる争いが起り、
弘安8年(1285年)に鎌倉で有力御家人の安達泰盛
内管領の平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、

景資は泰盛側に与して泰盛の子で肥後国の守護代・安達盛宗と共に
筑前国で挙兵したが、頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、
居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。

竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』には、
小勢で出陣する季長を大将として見送る景資の姿も描かれている。

少弐景資=源義経  

国難に表れる護国のヒーロー。
歴史は繰り返されていきました。
その姿は謎めいていながらも
後世まで息吹を色濃く残し、歴代のヒーローたちは
いまなお、大切なメッセージを私たちに伝えてくれています。

いまもまた、肌で感じながら動いていく時代なのです。





テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/04/05(木) 12:34:25|
  2. 邪馬台国ラプソディ 聖地巡礼