瑠璃の星☆彡

写真・イラスト・旅日記

英彦山★六甲山 修験道と山岳信仰 8 変わりゆく仏教

317高住神社23
英彦山 豊前坊高住神社 拝殿と磐座

『秦氏の研究』
大和岩雄 大和書房

p-108


金達寿は、香春神社のある福岡県田川郡香原町の「広報かわら」に
載っている江本淡也の「渡来人の町香原」の文章を引用しているが、
その引用文に「福岡県資料、明治十五年小字名詞べ」によって、
田川市、郡について調べてみたところ

・英彦山地区に 「カラクリ、唐臼谷、唐ヶ谷」
・猪位金地区に 「カラ池、唐花」
・方城地区に「唐ノ山、唐細工、カラ谷」
・大任地区に 「カラコ」
・香春地区に 「唐土町、唐人池、唐木」
・匂金地区に 「唐川、唐子橋、唐ノ町、唐人原「」
・採鋼地区に 「カラキゾノ、唐山浦」

「カラ」「唐」「加羅(加耶)」のことだと書く。

そして、香春の神を『風土記』が「新羅の国の神」と書くのは、
「風土記が出来た八世紀には加羅国の国はなくなて新羅の国になっていたのと、
その当時、新羅とは深い親善関係にもあったので、加羅の国神としたと考えられる。

実際、香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命で、
辛国(韓国=加羅国)の神であることからもわかると書いている。

『風土記』には、「新羅の国の神」とあるが、伽耶の国々は新羅に併合され、
首露王を始祖とする
金官加羅国の王は、新羅の王族になっているから、
『風土記』の頃は、「新羅の国の神」と書かれているが、
本来は、伽耶(羅)の国の神であったろう。


p-121


秦王国には仏教公伝以前に仏教が入っていた

豊前の彦山(英彦山)は、北九州第一の高峰(一一九九メートル)で、
九州修験の総本山だが、かつての案王国の聖山であった。

『彦山縁起』によれば、この山は、仏教公伝(五三八)より早い、
継体天皇二十五年甲黄(五三四)に、北魏の僧善正が開山したとあるが、
『彦山縁起』は、成立が平安中期以前に遡る
『熊野権現御重逆縁起』(略して『静野縁起』)に典拠があるという。
『熊野縁起』によれば、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、
最初は彦山の天降ったという。


いしっち ゆづるは きりべ

彦山から伊予の石鎚山
ついで淡路の遊鶴羽岳
さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山へ移ったとあり、
彦山へ最初に来たのを、「往古、甲寅年」とする。



p-122


仏教公伝以前に渡来した仏教の性格について、
五来重は、朝鮮への仏教渡来は、「道人」といわれる人が伝えているが、
「通人といわれる人々は、日本の優婆塞・禅師・聖などと呼ばれる民間宗教者にあたり、
仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して
党術・易占・託宣をおこなったものと思われる」から、
仏教、陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入ったと、推測している。

中野幡能は、五来のように公伝以前の仏教伝来を彦山に限定せず、
豊国全般に公伝以前に仏教は入っているとし、
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」と書き、
「少なくとも五~六世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と
そのもつ原始神道と仏教が融合している事実がみられる」と書く。

そして用明天皇二年(五八七)に、豊国法師が参内しているから、
六世紀末には「九州最古の寺院」が「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていた」とみて、
「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して
六世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に
入ったものではあるまいかと考えられる」と書く。

このように、五来・中野の両氏は、
仏教公伝以前に、豊前に仏教が入ったとみているが、
なぜ、豊前にいち早く仏教が入ったか。

そのことについて、五来垂は説明していないが、
中野幡能は、豊前の「秦氏と新羅人の関係」から入った、とみている。


p-123


仏教が公伝以前に入っていたことを示す例に、「豊国法師」がいる。
『日本書記』用明天皇二年四月二日条の豊国法師の記事(一〇三頁参照)は、
『日本書紀』に記されている「法師」(「法師」は僧をいう)という文字の所見だが、
「法師」の所見記事だから、当然、法師を初めて内裏に入れたこと、
天皇の病気を治療するのに初めて「三宝(仏教)」によったことも、初見である。

★江戸時代の森春樹は、藤原恒雄が豊国法師という

雄略天皇の病気治療には、巫が内裏に召されているが、
この巫は巫部連の統率下に入っている(一〇一貫参照)。

この巫部を無視して、用明天皇は「三宝」によって、病気を治療しようと詔したので、
天皇の詔に反対して、物部守屋中臣勝海は、
「何ぞ国神に背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事しを識らず」といった。
物部守屋らが反対したのは、天皇の病気の治療は、
「他神」の「仏教(三宝)」でなく、「国神」の「巫術」だったからである。


p-124


田村囲澄は、「『豊国法師』は、一人の僧を示すよりは、
むしろ医療にあたる豊国の法師団と解すべきであろう」と書いているが、
当時(用明二年)、飛鳥にいた法師は、高句麗慶便一人だけで、他にはいなかった。
それなのに、豊国には法師団がいたのは、仏教公伝以前から、
五来のいう「道人」による朝鮮の民間仏教が、豊国(秦王国)に入っていたことを示している。


p-127


五来重は、仏教公伝以前に彦山に入った仏教について、
新羅仏教に限定せず、朝鮮仏教として論じているが、
豊国へ入った仏教は、中野幡能が指摘するように、新羅仏教である。

新羅は法興王(在位至四~盃〇)が公式に仏教を受容しているが、
新羅への仏教伝来は、それ以前からである。

田村囲澄は、公認仏教以前の新羅への仏教伝来について、次のように述べている。

新羅の仏教伝来は、前砥王(在位四一七~四五八)の時代であった。
すなわち、高句麗から僧の墨胡子が一善郡の毛札の家に来たが、
毛札は家の中に窟室をつくり、仏像、経典、および墨胡子を安置した。

これが新羅仏教のはじまりであるという。
墨胡子は、名前から推察すれば、肌の色の黒い西方の人ということであろう。

毛札の家にいた墨胡子は、いずこともなく姿を消したが、
次に批処王(在位四七九~五〇〇)の時代に、高句麗からきた僧の阿道が、
三人の侍僧とともに、再び一善郡の毛札にとどまった。

数年の後に阿道は死んだが、侍僧たちは経典の講義をつづけ、
その感化により仏教信奉者があらわれるようになったという。

ともあれ高句麗から伝えられた新羅の仏教は、北朝仏教の系譜を嗣いでいた。
(中略)新羅の仏教伝来の経過をみると、まず五世紀以前に、
高句麗から来た僧が一善郡の毛札の家にとどまり、仏教をひろめた。

いわば私的かつ地方的な仏教の伝来である。
一善郡は善山(韓国慶尚北道)に比定される。
毛札が自宅に墨胡子を、次に阿道わ迎えたのは、毛札がすでに仏教信者であったからであろう。
毛札が高句麗からの渡来系氏族であったことも考えられる。
一善郎の私的ろ・地方的な仏教が中央に広まり、法興王が仏教に傾斜した。

ここに書かれている方興王以前に新羅に入った仏教は、「道人」による「私宅仏教」である。
わが国へも、仏教公伝の五三八年に、秦王国以外にも「私宅仏教」が入っていた伝承がある。


p-130

彦山四十九窟は法蓮伝承と結びついているが、
六郷山の山岳寺院も、法蓮が初代別当であった弥勒寺の別当に所属しており、
ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっている。

しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、
それ以前に新羅に入っていた「私宅(草庵)仏教」と結びついている。

新羅の「私宅仏教」は、高句麗の「道人」の墨胡子や阿道が新羅に来て、毛札の家で拡めたというが
(田村園澄は毛札も新羅にいた高句麗人とみて『後漢書』東夷列伝の高句麗の条に、

其国東有二大穴一、号二極神一。
亦以二十月迎而祭之 とあり、『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、

其国東有二大穴一、号二随穴一。
十月国中大会迎二随神一:撃於国東一上祭之、置二木随於神坐一。とある。

大穴を、極神・随穴・歳神などと書いているが、土橋寛は『魏志』東夷伝高句麗の条の「随穴」に、
「置二木陸r於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、
木随を豊餞を祈る木枠のようなものと解釈し、
新羅の皇子天之日矛を祭る大和の穴師兵主神社の祭神が、御食津神で
神体が日矛であることと関連させて、御食津神を歳神、神体の日矛を木随とみている。

洞窟に「木随を置いて神坐す」とするのは、家の中に「窟室を作り、仏像を置くのと共通する。
槌神・歳神の木槌が、仏像になったのであり、高句麗の民間信仰に仏教が習合している。
この高句麗の「私宅仏教」が新羅に入ったのである。
土橋は、天之日矛(日槍)を木随と見立てているが、
天之日矛を祭る穴師兵主神社は、穴師山にあったが、穴師山は弓月嶽という


p-139


ある期間、花郎がこのような洞窟内に籠もったということは事実とみてよかろう。
花郎が遠遊して一時帰らなかったという伝説、
例えば夫礼郎や宝叱徒太子の伝説のごときもまた、
この間の事実に発源するものではあるまいか。

実際に、男子集会の入信者や指導者である呪師が或る一定の期間
聖場に忌籠ることは普通な習俗であり、花郎の場合もまた同様であったらしく、
既述のごとく金庚信は花郎時代に中嶽石堀中で斎戒修行したのであった。(中略)

恐らく花郎が衆徒を領して遊娯した場合、
こうした最も神聖な洞窟の中へは花郎のみが忌み籠ったものであろう。と書く。

『彦山流記』は、震旦国「王子晋」は、
彦山の磐窟に雨降り、四十九箇の洞窟に御正鉢を分けたが、
分けられたのは「天童」であり「金剛童子」だと書く。

洞窟内の天童・金剛童子は、王子晋の分身であり、洞窟にこもる花郎と重なる。
花郎も少年だが、彦山伝承でも、洞窟にこもるのは「王子」「天童」「童子」である。
こうした花郎のこもる洞窟を、新羅で「弥勒堂」というのは(季穀『東遊記』)、
弥勒=花郎とみていたからであろう。

p-140


このように彦山・宇佐八幡宮の伝承は新羅花郎弥勒の化身とみる発想による。


p-141


当時、大和政権の都のあった大飛鳥の仏教は、公伝の百済仏教であった。
この百済仏教に対し、新羅仏教を公式に入れたのは、
聖徳太子と太子の寵臣の秦河勝である。

平野邦雄は、「百済仏教を通じての蘇我-漢-今来漢人の一貫した結合関係に対し、
同時代の秦氏が新羅仏教への親近性を示すのは、仏教興隆をめぐる蘇我-漠と、
これに対する聖徳太子-秦河勝の勢力的結合によるもの」とみて、
「蘇我氏の伝統的な百済救援と任那復興政策」に対し、
聖徳太子の外交政策のちがいを詳述している。

また、平野は、蘇我氏の新羅敵視政策に対し、太子は秦河勝をとおして新羅も百済と同じに
友好国として対処していた事例をあげ、そのような太子の外交政策を「一層あきらかにするのは」
「太子の死後、ただちに蘇我氏によって、新羅に対する軍事行動が復活されたこと」をあげている。


p-152


香春郷の桑原は、桑原屯倉のあったところだが、(二六〇頁)、
屯倉の管理にあたる三宅連の祖のタジマモリは、
新羅国の皇子天之日槍である(『古事記』『日本書紀』『新撰姓氏録』)。
この新羅系のタジマモリは、常世国へ渡り「非時香葉」を持ち帰っており、
新羅と常世はかかわっている。

中野幡能は、
「豊前国の場合、彦山を始め、これらをめぐる山岳修験を隆盛にした山々で、
白山神を祀ってない山は皆無といってよい」と書き、
「九州に入った修験道信仰は確実には十二世紀の熊野信仰が始めてである」のに、
「北部九州にみる『白山神』は、ほとんど奈良時代、または平安時代に勧請されたとされている」から
修験道によって「加賀白山信仰が九州に入ったとは考えられない」とみる。

そして豊前の白山信仰には、白山・小白山の信仰があるから、
中野は「北部九州、特に豊前国における『両白山』の信仰は、
古くは『太白山』『小白山』の信仰、
つまり中国や、朝鮮の慶尚北道、江原道の境にある太白山、小白山の信仰で、
その神も、太白山上に現れた桓因、桓雄、桓検の三神に関係があるのではあるまいか」と書く。


「桓因、桓雄、桓検の三神」について

韓国にも山岳信仰は古くから発達していた。
『三国遺事』によると檀君の信仰がみえる。
檀君は帝釈天桓国の子桓雄との間に生まれた神人であるとある。
金得模氏によると朝鮮の古代信仰に「神教」のあることを述べ、
その民族の始祖を檀君としている(『韓国宗教史』一九六二年、韓国思想研究所)。

この宗教を「大信教」といっているが、白頭山を中心に広く分布している。
その教義は、神教的信仰の対象を桓因(上帝)、桓雄(神市)、桓検(檀君)の三神であった。

桓因は万象を主宰する造化神であり、

桓雄は人の世を救うために、天符三印をもち、
霊師・雨師・風伯をつれて太白山におりた神人である。
桓雄は古代朝鮮を開いた教化の神として、民衆を治めた。

桓検檀君であるが、君主として古代朝鮮をつくったという。
(金得桟『韓国宗教史』『韓国-その民族と文化-』、
金思樺『朝鮮の風土と文化』、今西龍『朝鮮古史の研究』)

しかして大信教では、この三神は一体で、
いわゆる上帝ハン二ム(神)であり、
しかもこの信仰は現在も民俗信仰として遺っているという。


p-155


水谷慶一は、「四世紀頃よりアジアの東北部に幡居した民族に勿吉があり、
これは後に靺鞨と名を変えるが、この靺鞨と七つの部族の中に、
『白山部』という支族が存在する」という。

『白山部』は、白頭山を主峰とする長白山脈をはさんで
成興、間島、豆満江流域の諸平野から日本海に至る広大な地域を占めていた。

彼らは高句麗族と同じくモンゴロイドの血が混じったツングース族であり、
七世紀末、唐によって高句麗が滅亡した後は、
全ツングース族を糾合して渤海国を建国した雄族である。

渤海の建国者、大群栄が『白山部』の出身だとする説が古くからあり、
高句麗や渤海の水軍の活躍を通じても推察せられるように、
彼らは航海に長じた民族であった。

白頭山=太白山の信仰は、おそらく彼ら『白山部』の中で育まれ
日本海を渡って運ばれたものと想像されるのである」と書いている。

このツングース系の信仰は、地理的位置から見て、
加賀の「白山」と無関係ではない。


楼蘭善は、「不成文化論」で、
朝鮮には白(park)の字を持つ白頭、長白、祖白、太白、小白、鼻白、
旗白、浮白、白雲、白月、白馬、白鶏、白華などの山が至る所にあり、
自の音(または訓)の転註・仮借とみられるものを加えれば、
朝鮮の山の多数にのぼると書く。

また、『朝鮮常識・風俗編』では、
朝鮮では天主(王)の子孫が域内の代表的山嶽に鎮座していて、
そこの住民の生死禍福を菅掌していると考えられていると書き、
「生」はその聖山から俗界に出てくること、
「死」は俗界から聖山に帰還することで、
聖山は生命の故郷であると書く。

そして、朝鮮語の「生」を 〔芽が〕 ヰヰ(nada生まれる)



p-156

金剛山は新羅花郎が聖山として登る山のトップだが、
花郎を弥勒の化身とする新羅の弥勒上生・下生信仰は、
死と再生の信仰で白山信仰と重なる。


p-158


北部九州の白山信仰は、北陸の白山信仰とちがって、
「必ず天童の信仰が附随している」と、中野幡能は書いている。

天童信仰のもっとも盛んなのは対馬であり、
対馬には「白」を冠する山が、前述したように多い。


記・紀神話では、天忍穂耳命でなく、その子のニニギが天降っているが、
ニニギにするわけにいかないから、オシホミミにしたのである。

桓雄は太白山に天降っているから、桓雄をオシホミミに変えたのであり、
この伝承の根は、朝鮮の始祖降臨の檀君神話にある。

朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承で語られていたが
(但し、「藤原恒雄」と日本人化してはいたが)
それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命となり、
香春神社の祭神忍骨命となったのである。

『彦山流記』は、彦山に降臨した「王子晋」の分身を「天童」というと書くように、
王子晋も御子忍穂耳命(忍骨)も、同じイメージである。

彦山の「彦」は「日子」で、日の御子の意である。
対馬の天童伝説では、天童を日の御子とみている。


p-159


こうした天童伝説は、加羅の始祖王の伝承とも共通する。
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加羅国始祖王【赫居世】

朝鮮,新羅の伝説上の始祖・赫居世王(在位前 69~後4) 。
『三国史記』『三国遺事』によれば、昔、慶州地方に6村があり。
各村長が集って自分たちを統治する君主を求めていたところ、
揚山のふもとでしきりに馬がいななくので、
そこへ行くと大卵があり割ってみると男児が現れた。

この子が赫居世。6村の推戴により13歳で即位。
始祖が卵生で降臨する型の神話はアジア各地でみられる。
こうした神話は「賜姓」伝説とともに
新羅成立後に生れた伝説といわれている。

赫居世の名は、閼智(あつち)。
民間伝承に多く用いられる閼智は穀霊を意味する。
水神の王后・閼英(あつえい)をえて、
はじめて天候と土地との結合する農耕神話=建国神話が完成する。

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317高住神社29

新羅仏教の、家の中に窟室?
・・・こういう感じなのかな?

それをちょっと想像させられる、高住神社本殿の写真です。
磐と建物がくっ付いているのが、当初はとても不思議でした。

英彦山周辺の磐座めぐりはしていません。
でも、周辺に面白い岩がたくさんありそうですね。

鷲林寺6

こちらは六甲山麓鷲林寺(じゅうりんじ)の岩窟です。

2013鷲林寺10

六甲山麓には、空海開基の鷲林寺があります。
鷲不動明王(麁乱荒神)が祀られています。
岩窟には八大竜王が祀られています。

この近辺はその昔、宿坊だらけだったと言われています。
もしかして英彦山周辺にも似ているところがあるのかも?

こち六甲は「鷲・ワシ」で、
英彦山は「鷹・タカ」の住処でしたね。

裏六甲には、唐堰という地名があり
周辺は多聞寺をはじめ、修験道・山岳信仰の寺だらけです。

少し離れた三木市にも、伽耶院があり、
新西国三十三か所めぐりの札所となっています。

新西国~のルートは、
空海・聖徳太子に縁のある寺院ベスト33なのです。
すべて廻りました。
修験道・山岳信仰のなんたるかを
そのとき、ちょっとだけ、掴めたような気がしました。

鳥さんたち、熊さん、、、
そのトーテムや、神使たちと
山の中で出会えるのも楽しいです。


公式な「仏教伝来」のはじまり以前に、仏教が存在していて。
それも原始神道と、移りゆく信仰形態の融合でした。

日本という国は「受け入れて和す国」
それがとてもよくわかるお話でした。


テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/05/01(火) 16:33:53|
  2. 英彦山☆六甲山 修験道と山岳信仰