FC2ブログ

瑠璃の星☆彡

写真・イラスト・旅日記

「能」と「AR」の深い関係 能楽師 安田登

能楽の世界に飛び込んで、もうすぐ1年になります。
観世流シテ方(梅若派) 能楽師・井上和幸先生から謡と仕舞を教わっています。
だんだんと楽しくなってきました♪

梅若

井上先生も本を書かれていますが、
「能」について書かれた本は多種多様で多く出されていて、
それぞれ興味深く読ませていただいています。


今日ご紹介するのは、
下掛宝生流ワキ方能楽師・安田登先生の著書です。
私はまだお会いしたことはありませんが、
動画を拝見していると、とても魅力ある方だと感じました。

著書は「能」の奥深さを存分に味わえると思います。
伝統を踏まえつつも、現代の風潮を的確に捉えて、能との関わりを語られています。
やはり「能」=「脳」でもあり、カンも冴えて頭の回転もよくなりそうです。
3DCGやゲーム関連に明るい感じが、引きつけられる所以なのかもしれません。
私もゲーム開発に携わっていました。感覚的に「わかる!」っていう世界です。

幽霊が見えていた日本人。「ホロレンズ✖️能」で、本来の『AR民族』に戻る



ご興味のある方は、ぜひご覧ください。

安田登

650年続いた仕掛けとは

(『能 650年続いた仕掛けとは』新潮新書 2017より)

能は今からおよそ650年前の室町時代に観阿弥、世阿弥父子によって大成された芸能です。
以来現在に至るまで、一度の断絶もなく上演され続けてきました。
これは世界でも稀有なことで、2008年に日本では最初にユネスコの「無形文化遺産」に選ばれています。

歴史とともに化学反応を起こしながら姿を変えて行きます。

・「老舗企業」のような長続きする組織作りのヒントになる
・80代90代でも舞台に立っているほどなので健康長寿の秘訣がある
・不安を軽減し、心を穏やかにする効能がある
・武士、財閥トップが重用したように、政治統治やマネジメントに有効
・夢幻能の構造はAI(人工知能)AR(拡張現実)VR(仮想現実)など先端技術にも活かせて、汎用性が高い



能は妄想力が大切である

世阿弥が古典を立体化
紙に書かれた2次元の古典を3次元に立体化し芸能にした。

観阿弥世阿弥

室町時代までの芸能には、このような試みは見られませんでした。
父親の観阿弥でさえ、古典を材料にした芸能はあっても、
世阿弥のような王朝立体絵巻とでもいうべき作品は残していません。

鎌倉時代に後深草院二条が自伝形式で日常を綴った『とはずがたり』には、
源氏物語ごっこのような遊びが書かれており、
古典を遊び直す試みは既に公家文化の中にあったことがわかります。

ただそれを劇として見せたのは、世阿弥が世界でも初めてです。
海外を見渡しても、さまざまな形態を試みた古代ギリシャ演劇にさえ
古典を立体化させたものはほとんどありませんし、
シェイクスピアには古典から材を取ったものは多くありますが
世阿弥のような古典の立体化とはちょっと違います。

テニスの王子様

最近では「テニスの王子様」「弱虫ペダル」といったコミックが
ミュージカル化あるいは舞台化されていて、
「2.5次元」というジャンルが確立されているようです。

弱虫ペダル1

「2次元」のコミックを立体化したことがその語源だそうで、人気の舞台はチケットが瞬殺で売り切れだとか。
オリジナルはあるものの、その後に勝手にファンたちが展開を作り、
それにまたファンがつくような流れもあるそうです。

古来ファンというものはみな脳内で妄想をするものです。
ネットなどそれを表現する道具や場ができたからなのか、妄想が外に溢れ出し、具体化する。
文字や映像どころか、舞台にまでなっていく。

これを聞いたとき、まさに世阿弥と同じだと思いました。
ファンが熱狂したという点でも、往時に通じるものがあります。

室町の同時代の人にとっては、猿楽能・田楽能の舞台は決して静かに見守るものではありませんでした。
「2.5次元」ミュージカルやアイドルのライブのような一体感があり身を躍らせて盛り上がったものだったのです。
紙に書かれた物語から妄想を拡げて立体化し、それを見る人たちが一体感を持ち、ワクワクする。
こうした内在的な力を私は「妄想力」と呼んでいます。

集団になるとその力は伝播していきます。
妄想をみんなで共有することで楽しむという、現代にも通じるこの流れの源流には能があった。
むしろ能の存在がその土壌をつくった、と言っても過言ではないように思います。


能を妄想する

能に喚起される妄想力は、観客を物語の世界に引き込むだけではなく、
見知らぬ土地に連れて行くこともありました。

そもそも、昔の人は生まれた土地からそう遠くまで行くことはかないませんでした、
それでも未知の土地への好奇心は募っていくもの。
昔はそれを満たす方法のひとつが能だったのです。
「雲林院」という曲が能にあります。

『伊勢物語』を読むのが好きな青年・芦屋公光が、
京都の雲林院を訪れ、美しい桜の枝を折ろうとしたところ、一人の老人が現れます。
老人は古い和歌を詠んで枝を折るのを止めようとします。
それに対して公光の方も和歌で返し、歌での応酬が始まります。
そのうちに、この老人は平安時代の歌人、在原業平の幽霊だとわかる。

業平は「伊勢物語」の作者だとされていました。
業平の幽霊は「この木陰で寝て待て」と言って霞とともに消えてしまいます。
待っていると今度は貴公子の身なりをした在原業平(これも当然幽霊)が現れて
「伊勢物語」について語り舞い出します。

『伊勢物語』は都からスタートして信濃を巡り、駿河や武蔵野を通って
最終的には陸奥の宮城の栗原辺りに行くという展開ですが、
これにちなんだ「雲林院」は、謡と舞で「伊勢物語」の旅巡りをします。
『伊勢物語』を立体化していくわけです。

ですから「雲林院」を見る人は、『伊勢物語』での在原業平の旅を追体験することになります。
舞う人は自分が在原業平となってその旅を追体験するのです。
これもまた、能の持つ妄想力のなせる業でしょう。

『古今和歌集』の解釈をまとめた『古今伝授』の中には、
「伊勢物語の名所は全て宮中の庭の中にあった」という言い伝えがありました。

日本中を旅したことになっている「伊勢物語」の旅は、
実は宮中の庭の中でも味わえるということです。

それだけでも相当なミクロ化ですが、演じる側と見る側の共同作業によって
「雲林院」においては、さらに旅の世界が三間四方の能舞台に凝縮さ再現されるのです。

このような妄想力による再現は、他でも見られます。
たとえば柳沢吉保が作庭した六義園には、「万葉集」や「古今集」などの和歌にちなんだ
言葉が書かれた石柱がいくつも立っています。

六義園

庭を巡る人はその石柱から和歌を思い起こしました。
その和歌のゆかりの地は、多くが和歌山県の和歌の浦と桜の名所である吉野山です。

石柱によって導き出される和歌と、その和歌の景色を幻視し、
それにいま目の前にある現実の六義園の景色を重ねます。
六義園を歩き鑑賞しつつ、一方で和歌と共に幻視をして、ヴァーチャルな旅をするのです。

現実の景色に幻視を重ねるというのは、
最近よく話題になる「AR(拡張現実)」「MR(複合現実)」と酷似しています。

ARVRMR.jpg

スマホやゴーグルを通して外を見ることで、現実の風景に加えて、
投影された映像が重ね合わされる、というのが典型的なARの仕掛けです。
今後MRが発展していく可能性もありますが、この本ではARとしてまとめて呼んでおきます。

昔の人は、自らの妄想力によって、和歌と庭を脳内でミックスして
スマホもゴーグルも使わない「脳内AR」を楽しんでいました。
六義園は脳内ARを発動するための庭だったというわけです。

もちろん、このような脳内ARを楽しむためには一定の素養が必要だったことでしょう。
和歌、能、俳句、あるいは地理の知識が求められる上に、前提として妄想力がなければいけない。
しかし、それができる武士にとって六義園は、紀州への旅ができるエンターテインメントパークだったことでしょう。

そして六義園に行けなくとも、「雲林院」の舞台を見ているだけで、
あるいは謡を謡っているだけでも旅をすることはできます。

能は、見知らぬ土地への切符でもありました。
平面的で広大、そして幾何学的、シンメトリーになることも多い西欧の庭に比べて
日本の庭園は山あり海あり、浮かぶ島あり、人間が歩いて回る前提のウォークスルー型です。
俯瞰して実際を見るというよりも、巡って想像しながら楽しむための場なのでしょう。

ARと能との関連は、その技術開発にたずさわる方たちも注目なさっているようで、
私も含めて能の関係者には、研究者の方たちからさまざまなアプローチがあります。

実際に、能を参考にしたVR映像の制作のお話も進行中です。
能をヘッドマウントディスプレイを使って見ることで、妄想力を広げられないかという研究も始めています。
これは、能の「情景」を3D映像や360度映像で作り、その前で能を演じるというようなことではなく、
VRやMRを使って私たちが本来持っている脳内ARを発動させます。
つまり、舞台上ではふつうの能をふつうに演じ、それを観客各人に自由な妄想力で観てもらうための研究です。

能舞台

能舞台は「見えないものを見る」装置

能の妄想力を象徴しているのが能舞台です。
改めてよ考えてみると、能舞台という存在自体が不思議です。
歌舞伎は家屋や背景をつくって舞台演出をしますが、能ときたら、
舞台装置は背景にある松の絵だけ、650年間それ以外の装置はなく、
演出において照明さえあまり使わずにきました。

江戸時代には歌舞伎だって屋外で興行したことがあったでしょうし、
もし江戸幕府が本腰を入れたら財力を駆使してもっと派手な舞台セットを能のために作れたはずです。

でも、江戸幕府はあえてそれをしませんでした。
それはなぜか、冒頭に述べた私が能に夢中になった瞬間とも関係しています。
あの簡素な能舞台こそが、「見えないものを見る」装置として最適なのです。
いま自分の目に見えているものに、幻の風景を重ねる、この目的のためには、
枯山水と同じく背景はなるべく単純な方がいい、だから、あるのは松だけです。

そして、能舞台のすべてはそのためにある、もしくは、そのために邪魔なものが「ない」。
それなのに、見る側はそこにさまざまな背景を見出す。
脳内ARを働かせる。

明治になって、能舞台をあの形のまま屋内に入れたのは、必要性があったからです。
つまり能(および能舞台)は、見ているお客さんが脳内ARを発動するための装置なのです。
能の中で謡われている言葉や音は、幻視を促すべく脳を刺激する。
六義園の石柱と同じです。

文楽や落語、浪曲と同じで、話を聞いているうちにお客さんはその情景を想像します。
日本で人気のある芸能の多くは、脳内ARを発動させていく機能を持っている。
こうなると、日本人は妄想を楽しむために芸能を見に行く、とさえいえないでしょうか。

浪曲師の玉川奈々福さんは、「日本ほど語り芸の多い国はない」と言っています。
確かに平曲や能、さらには義太夫、講談、落語、そして浪曲と
今でもふつうに聴くことができる語り芸はたくさんあります。

映像もない、ただの語りだけの芸でも、合戦の場面では手に汗握り、
親子の情愛を感じてしんみりし、夫婦のやりとりに泣く。

それで楽しむことができるから、舞台になり芸になり、人が集まる。
観客の側が妄想力で補う芸能がここまで多い国は、そうはない気がします。

そういえば、こんなこともありました。
あるお寺で行われた数学の授業に参加したときのこと。
何人かの小学生が、暗算をするときに、空中でそろばんを弾く仕草をしていました。

こういう景色はちょっと前まではよく見ましたよね。
教室には、障子があつたのですが、その子たちは「障子の桟があるとわかりやすい」と言います。
それを算盤に見立てて、玉があるように手を動かしながら計算をしています。
これもまた脳内ARです。


歌の力

実際に、舞台に立つ者として実感するのは、妄想力を喚起するにあたっては、
歌の力が強いということです。歌には、脳内ARの発動を促進する力があります。
能の観客が脳内ARを発動させやすいのには、謡の存在が大きい。
この謡の詞章のペースになっているのは和歌です。
発動させる媒介、装置として和歌は最適です。
地名や歌枕から浮かぶ共有イメージが、古来強固だからです。
宮中の歌会始で節をつけて和歌が詠まれているのを聞いたことがあると思います。

本来、和歌は声に出して詠われるものでした。
俳句俳諧もそうで、芭蕉の句は声に出して謡われていたにちがいありません。

芭蕉の「旅人とわが名よばれむ」の前に能『梅枝』の詞章の入った書画があると書きました。
この詞章には謡の節と拍子を示す符号(ゴマ点といいます)まで振られています。
つまり単なる俳句ではなくて、譜面がついているようなものです。

芭蕉

おそらく芭蕉は、まず『梅枝』の謡を謡い、そのまま節をつけて「旅人と~」と謡ったのでしょう。
私も『おくの細道』は節をつけて謡うように読んでいます。

このように節をつけて読むという習慣は、比較的最近までは珍しくありませんでした。
私の知人のお祖父さんは、毎朝新聞の記事を謡いながら読んでいたそうです。
さらに興が乗ってくると、踊りだしたとか。

個人的には、本来日本人が持っていた脳内ARの力、妄想力が弱くなってきている気がします。
それはスマホなどのせいなのかどうかかわりませんが、
本来、「目の前にないもの」を見出す力は娯楽に限らず活用できるはずです。
文字情報から立体や映像をイメージするシミュレーション能力は、ビジネスの場などでも有効でしょう。

だからこそ、武士たちは、脳内ARを刺激する能をたしなんでいたのではないか、という気もします。
序文で私は、最初の能体験で幻視した、と書きましたが、それはまさに今でいうAR体験でした。
なんの前知識もなかったので、身体に素直に入って「見えて」きた。

能にハマる人の多くには、時々「見える」感覚があるのではないでしょうか。
あの橋掛りを、つーっと歩く役者に目が吸い寄せられているうちにその感覚が刺激されるのか。

面が喚起する感覚を、その意識につなげるのか。
囃子の音が眠っていた脳内ARを発動させるのか。
面(おもて)が喚起する感覚を、その意識につなげるのか。
囃子の音が眠っていた脳内ARを発動させるのか。

現在、能を「つまらない」と思う人が多いというのは、ある意味では当然のことでしょう。
能は、見ている方が一定ラインまで踏み込んでいかないと実感できないものだからです。
漠然と聞いていても面白くないようにできており、「ここまで来い」と能の側が待っている。

そのラインを何かの拍子で越えた時に、脳内AR装置が発動して見えないものが見えてくる。
いや、それだけでなく、それができれば昔の物語を日常生活で味わって生きるようになり
「もののあはれ」を知るようになる。

繊細な情緒を持つことで、人生を豊かなものにできるのです。

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

  1. 2018/12/22(土) 00:02:54|
  2. theory☆singularity